今日は、妻の実家の近くにある山を朝から散歩した。
木々や緑が目に入り、太陽の光を浴びながら、一定のリズムで歩くだけの時間。
特別なトレーニングでもなければ、何かを達成したわけでもない。
それでも、歩き終えたあとに
「ああ、今日もいい朝だったな」
と、自然に思えた。
最近、この感覚がとても大事だと感じている。
朝に体を動かすと、なぜ幸福度が上がるのか
これまで何度も書いてきたが、朝に体を動かす習慣は、自分の生活にとって欠かせないものになっている。
HIITをする日もあれば、今日のように散歩だけの日もある。
共通しているのは、朝に体を動かす日は、一日の幸福度が明らかに高いということだ。
仕事が特別うまくいくわけではない。
嫌なことがゼロになるわけでもない。
それでも、気持ちの底が安定している。
以前の自分なら、こう考えていたと思う。
- 心拍数はどれくらい上がったか
- どんな効果があるのか
- それは再現性があるのか
効率化を追い求めていた頃の自分は、
「何の役に立つのか」を突き詰めないと気が済まなかった。
今は少し違う。
理由ははっきり説明できなくても、
自然を感じること自体が、幸せだと分かるようになった。
体が動くことは、最高の生活効率化だった
一見すると、散歩は「非効率」に見えるかもしれない。
何かを生み出しているわけでもないし、情報を得ているわけでもない。
でも、実感としては逆だ。
体が動く状態を作ること自体が、いちばん効率がいい。
疲れ切った状態で効率化ツールを探すより、
頭が重いまま最短ルートを考えるより、
まず体を動かしたほうが、その後のすべてがうまく回る。
朝の散歩中、仕事のことが自然と頭に浮かぶこともある。
でも、それは嫌な感じではない。
無理に考えようとしているわけでもなく、
「ふと思ったこと」が、勝手に浮かんでくる。
この「ふと思ったこと」を大事にできる状態が、
今の自分にはちょうどいい。
効率化を追い求めていた過去の自分へ
1年前までの自分は、とにかく効率化を追い求めていた。
無駄を減らし、最適解を探し、再現性を重視していた。
今振り返っても、
それは間違いではなかったと思っている。
当時の自分には、あのフェーズが必要だった。
効率化を徹底的に追ったからこそ、今の余白がある。
ただ、フェーズが一つ進んだ。
今は、
幸福度最大化をゴールにして、効率化を使うフェーズに入ったと感じている。
効率化が目的ではない。
幸福度を高めるための「土台」として効率化がある。
この順番が入れ替わっただけで、生活の見え方がずいぶん変わった。
朝は一人、午後は家族。それがちょうどいい
今日の散歩は一人だった。
朝は一人で歩くのが好きだ。
誰の役割も背負わず、
父親でも夫でもなく、
ただの「自分」に戻る時間。
一方で、午後は家族で出かけるのが好きだ。
家族と過ごす時間は、別の種類の幸福を運んでくれる。
この切り替えができるようになったのも、
朝のルーティンがあるからだと思っている。
「自分に負けなかった」感覚が自己肯定感を作る
もし今日の朝、散歩に行かず、
家でスマホを眺めながらダラっと過ごしていたら、
たぶん一日中、どこかでもやもやしていたと思う。
「自分に負けた気がする」
あの感覚だ。
朝に自分のルーティンを一つ達成するだけで、
自己肯定感は確実に上がる。
大きな成功はいらない。
誰かに評価されなくてもいい。
「今日も自分との約束を守れた」
それだけで、心の土台が整う。
その結果、家族への接し方も自然と柔らかくなる。
判断基準は「家族の幸福が最大化されるか」
最近、新しいことを始めるときの判断基準が変わった。
- それは効率が上がるか
ではなく、 - それで家族の幸福が最大化されるか
この問いを最初に置くようになった。
効率化も大事だ。
でも、それはゴールではない。
幸福最大化するためには、効率化が大事。
この順番が、今の自分にはしっくりきている。
中途半端に感じるのは、視野が広がった証拠
正直に言うと、
「何が正解か分からなくて、全部中途半端」
と感じることもある。
でも今は、こう思っている。
それは迷っているのではなく、
どれも大事だと分かってしまった結果なのだと。
切り捨てられないのは、弱さではない。
視野が広がった証拠だ。
朝の散歩は、その中途半端さを否定しない。
「今日はこれでいい」と思わせてくれる。
まとめ:効率化は、幸福を支える静かな土台
- 朝に体を動かすと、幸福度が底上げされる
- 効率化はゴールではなく、幸福を支える土台
- 自分との小さな約束を守ることで、自己肯定感は上がる
- 家族の幸福を軸に考えると、判断はシンプルになる
今日の散歩は、そんな当たり前だけど大事なことを思い出させてくれた。
明日も、無理に頑張らなくていい。
まずは朝に、自分を裏切らないことから始めたい。

